ふと下をみると、波打つ水面に己の姿が揺らめいている。 水面に映った眼は、左右に揺れて、恐ろしいような形をとるけれど、私はこれが自分の形だと承知している。 揺れる体から拡がる波紋が、遠くの方で、別の波紋とかさなる。 遠くでかさなるあの波紋もまた、私の形をとっているのだろうか。(2021)
思うようにならない肉体を持て余しながら、いまはポジショニングをやめて、ただセンシュアルストーンとしてある他ない。 『センシュアルストーン』 タイトルに掲げたこの言葉は私の身体イメージを表すが、言い換えるならば「デロリ石」だ。 鮮やかで複雑な内臓の透けてみえる肌を持ち、憶測を内包する視線を跳ね返す。 楽観的とも悲観的ともいえないような態度で、生と死のいずれの予感をも孕みながら、汀(みぎわ)にも似た場所で、 ただそのようなものとしてある他ない。(2020)
二人展を開催するにあたって、万貴子さんから提案された主題は「アムリタ」だった。 アムリタとはサンスクリット語で不死を意味する言葉で、インド神話における不老不死の霊薬のことを意味するという。 勿論このアムリタという概念の本質については諸説あるであろうが、二人展であるということも考慮して、私は単純に「死なない」ことについて描くことにした。 アムリタを飲み干した私が、その効能を以って、死なない体(夢をみることを忘れ、喪ったセンシュアリティに憧れながら、目覚め続ける体)を手に入れたなら、きっと破壊の予感の奴隷になるだろう。 その姿を「石」「体」「タイムレスシティの人」の3つの可能性として示す。
「石」唯一無二の個性や存在感を信じることを表明するための自画像
「体」破壊可能な器物としての自画像
「タイムレスシティの人」死なない体の自画像 (2019)
一貫して描き続けている自画像というテーマを拡張し、成り代わり絵として、ギリシャ神話にでてくる怪物「グライアイ」を描く。 「グライアイ」とは「老婆たち」という意味である。 彼女たちは、生来老婆の三姉妹であり、ひとつの目、ひとつの歯を共有している。 それぞれがおぞましさについての名を冠する彼女たちを、自画像として描くことにより、分断された人格の真実性を探る。(2017)
胡粉は我の皮膚であり体である。(2017)
鏡に映し出された私とは、実際の私にとって、いったい何なのだろうか。 もしや、映し出されたこの像こそが、私なのだろうか。 鏡に対した時、私は自分の顔を覗き込んでしまう。 鏡自体を捉えることは難しく、また、自分の顔と同様に映り込んでいる物に注目することは、非常に稀である。 私にとって、鏡と共に想起されるのは、鏡に映る自分の顔なのである。 ならば、私にとって鏡とは、自分の像のことである。 鏡の他に、自分の像を見るために必要不可欠なものがもう一つある。 それは光だ。 光に関して、私には9歳の頃の思い出がある。 その頃、よく祖父母宅に預けられていた私は、遊び相手もおらず、寝室で電気を消して、ひとり遊ぶのが好きだった。 暗い部屋で遊んでいると、現実感がなくなり、幻想的な感じがする。 完全に真っ暗になってしまうのは怖いので、ドアは少しだけ開けておく。 ある日、ドアの隙間から薄明かりの射す薄暗い部屋の中で、ふと、祖母の鏡台に映った顔を見つけた。 私は、鏡の中の顔をしばらく眺め、ふと、これが自分かと気付き、放心して涙を流した。 その体験は何故か恐ろしく、私を不安にさせた。 あのとき、私が鏡の中で自分に出会ったのは、単に光のせいである。 ただの光として、私の目に射し込んでくる私の像は、何故か勝手にまばたきをしている。 私の意思とは関係なく、まばたきをしているのだ。 (2014)